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龍江の未来を切り拓く#5

龍江の未来を切り拓く「Professional (プロフェッショナル)」を独断と偏見、自由奔放、縦横無尽に訪ねる企画。

「やさしい風と緑につつまれて

あたたかい人たちの笑顔に見守られて

ぼくたちが育つ龍江 これからもずっとふるさと」

龍江に住む人なら一度は聴いたことがあるであろうこの歌、「ふるさとのたからもの」。

この作詞をしたのは、当時(平成28年)龍江小4年生の子どもたちであるが、その子どもたちの担任として作詞に携わり、さらに作曲まで手掛けた人物はだれなのかご存知だろうか。

18歳で故郷である山口県を離れ、教員の道へと進み、龍江小に赴任して5年目になる、現在1年生の担任の川元真治先生である。

第5回目となる今回は龍江との関わりの深い川元先生。「ふるさとのたからもの」を作った当時の思い出や龍江の印象、子どもたちへの想いなどをお聞きしました。

「すごいことになっちゃったね」

–「ふるさとのたからもの」はどのようにして龍江に広まったのでしょうか。

今までもいろんな学校でこういう歌づくりをやったことがあったんですけど、子どもたちと作ったふるさとのたからものを当時音楽会で披露して、それで終わりだと思っていたんですよね。

ところが、龍江コーラスの、前沢さんとか林さんに、「歌いたい」「楽譜がほしい」って言っていただいたんです。特に公民館長の塩澤さんは音楽会にも来て聴いてくださっていて、すごくプッシュしてくださいました。けれど、伴奏なんかも僕が適当に弾いているやつなので僕の頭の中にしかないので、「いや楽譜はないです」って言っていました。そこで今は他校へ行かれた片桐智子先生が曲を聴いて楽譜を起こしてくださいました。それをきっかけに他の人でも歌えたり、弾けたりできるようになったんです。周りからすごく反響があったので、戸惑いつつも、こんな自分たちがつくった歌を歌ってくださることはとてもありがたくうれしい気持ちでした。

その後、敬老会とかで「四区はないのか」「四区が出てこん」という話が出てきたので、じゃあ作りますかってことで。五年生の終わりぐらいに地域巡りの延長っていう意味でもあったんですけれど、高森山とかに行って尾科の文吾とかね、神峰山の方まで行ったりして作りました。

今度こそそれで終わりかと思ったら、、、塩澤公民館長がCDを作りたいと言ってくださって。子どもたちと、「すごいことになっちゃったね」って言いながら、ちょうど卒業の年だったのでとてもいい記念の物になりました。

これから先、この歌がどうなるかはわかりませんし、僕たちが歌ってくださいって言うこともないですが、地域の方が気に入って少し口ずさんでくださるなら、そんなにうれしいことはない。「昔そういえばそういう歌あったね」ってなってしまってもそれはそれでいいとは思っているんですけれど、やっぱり卒業した子どもたちが大人になってから聴いて、懐かしく思ってくれたらいいなって思います。自分のふるさとっていうものは心のどっかに必ずあるものなので、この歌を聴いてパッと蘇ればいいなと。それがすごい観光名所とかじゃなくても、自分の家の近くのなんでもない神社だとかね。「あ、10年ぶりに聴いた」とか、そういう感じになってもいいなっていうふうに思っています。

楽譜も読めない

−どうやって歌を作ったんですか。

まず歌詞から作りました。まとめるのは僕の方でやったんですけど、曲がつけやすよう語呂合わせじゃないけれど、5・7・5で子どもたちが作りました。あとは適当で、メロディから作るときもあれば、伴奏作ってメロディ作るときもあります。

昔ダンスに音をつけてくれっていう依頼があったり、テレビとかドラマとかに音をつける人っているじゃないですか、そういうのになりたいなって思ったこともあったんだけれど。最近は音源とコンピュータとキーボードがあれば、順番に弾いていって重ねていけばいいので、ピアノ弾いて重ね録りしていく感じです。一人でオーケストラもできちゃうんです。

ただ、楽譜を渡されると読めないので弾けない。CDを渡されれば弾けますし、聴いて同じ伴奏作れって言われるとできるんですよ。これは何の音、これは何の音だってわかるので作れって言われればできるけど、ただ楽譜を渡されるとだめ。学校の音楽には多分通用しないですね(笑)

龍江村という感じ

–龍江の印象を教えてください。

飯田市の学校は3校目なんですけれど、なんかちょっと飯田市とは一線を画したというか、飯田市なんだけれどなんか「龍江村」っていう感じなんですよね。田舎だからっていうことではなく、人と人のつながりなんかが。飯田市の中心の方へ行くともう知らない者同士ばっかしで。その間を繋いでいくのが難しい仕事として僕らにのしかかってくるんだけれど、龍江はもうおうちの人たち同士がつながっているから。だから子どもも割と安定しているんだと思いますし、仕事環境としてはとてもやりやすいし、楽しくできています。

 

−龍江の子どもたちの将来に対する想いを聞かせてください。

いろんな人と、いろんなことが変なストレスなしにやっていける、それが一番幸せだと思いますね。やっぱ人間関係が一番大変だから、限定された人間としか付き合ったりできないっていうのは、龍江を出たときに非常に生きにくいと思います。ずーっと同じメンバーで生きてますからね。それは幸せなことだけれども大きくなったらそういう世の中ばっかしじゃないんで。僕も子どもたちが親切にしてもらっているの見て、「世の中はそんな親切にしてくれる人ばっかしじゃないないからな」「ひどいこと言われることはよくあるんだ」って言ってますよ(笑)

僕は高校卒業するまで山口県の防府市っていうところにいて、大学で長野県に来ました。

僕もふるさとを離れているんで、離れて思うふるさとっていうのは、どうやって人を増やすのか、どんなふうになったら便利なのか、でっかい店ができればいいとか、そういうものではないんですよね。離れてみれば昔のままがいい、昔からあるものがあの時と変わらない感じでずっと残っている、そういう感じの方が本当にホッとするというか。ふるさとはいつまでもそうあってほしいと思います。

今回のインタビューと時期を同じくして書かれた某寄稿文を快くご提供していただきましたので、抜粋して掲載します。

川元先生の思いを読み取って見てください。

(略)

教師になって毎年音楽会が近づくと、憂鬱になるのが歌の指揮だ。歌詞に込められた意味やそこから浮かぶ情景を想像させながら表現豊かに歌わせる、これが難しく音楽の先生のようにできない。

(略)

自分たちが経験したことのないことに思いを寄せることが本当に難しいと感じた。

いいメロディー、いい歌詞の曲はいっぱいある。でも自分が中学の時に文化祭で歌った、そうではない「ちゃちぃ」歌を今でも覚えているのはどうしてだろう・・・・・・?たぶんその歌が自分たちだけのものだったからだと思う。どんなに簡単なメロディー、陳腐な歌詞でも、そこに何かしらの自分たちだけの思いが込められていたからかもしれない。そういう歌は、時が過ぎても記憶のどこかに残り、ふとした時に自然に口に出てくる。そんなこともあり、機会があれば、音楽会の歌はどんな曲でもいいので、なるべく手創りしようと思うようになった。

T小学校は天竜川の東側。リンゴが美味しく自然豊か、地域の人も素朴で温かい。三年生を受け持ち、社会、総合の学習で子どもたちと地域をまわった。「自分の家の近くの紹介したい場所・・・・・・ある?」と聞くと、昔からある地蔵のあるお堂や古そうな神社、立派なお寺など子どもたちは自慢げに紹介してみんなを案内してくれた。近くのパン工場へ寄った時は、思いがけずパンを全員分もらった。天竜川の舟くだりもその一つで「舟くだりをみんなでしたい」と言い出す子が現れた。乗船にはお金がかかる。「どうやってお金を作る?」「何か売ればいいじゃん。」無茶な発想だが話はどんどん膨らんできて、花のポット苗を育て、参観日で売ったり保育園に売りに行ったりした。そして一人千円あまりにお金をつくり、秋の紅葉の中、舟下りを楽しんだ。

そして翌年。四年の音楽会が近づいてきた。「去年みんなでやった地区巡りを歌にしてみませんか。」この提案に最初は乗り気ではなかった子どもたちを、半ば強引に引っ張り、何となくその方向へむかっていった。まずは歌詞づくり、なるべく五・七・七になるように川柳をたくさん作らせた。歌にするのに楽だからだ。

「羽生田に、しずかに残るお地蔵さん」「秋の空、紅葉にゆられてライン下り」「秋の空、大願寺の鐘が遠く響く」去年みんなで巡った地域の経験からか、意外といいネタがたくさん集まった。これを組み合わせ、歌の歌詞にした。曲のタイトルは、子どもたちが作った歌詞として保護者から募集し「ふるさとの たからもの」になった。これに担任が曲をつけて音楽会の歌として発表した。練習の時に子どもたちに言ったことは「とにかく去年の事を思い出して元気に歌おうね。」これだけだったように思う。自分たちの経験と思いがこもった歌だと思ったからだ。本番が終わり、「いい思い出ができたね。これで終わり・・・・・・。」のはずだった。

音楽会の事も忘れはいめていたころ、歌が一人歩きを始めた。まず、音楽のT先生が「この歌をアンサンブルに出しましょう。」と言い出した。素人がつくった曲だし、楽譜もないし・・・・・・。ならばと、そのT先生は、メロディを譜面に起こし、二部合唱に編曲してくださった。さすが音楽の先生だ。このことにより、歌がはじめて目に見える形になった。アンサンブルで、こんな曲を発表して大丈夫かと不安だったが、自分も文化会館で高価なピアノを弾く経験ができた。思えば、T先生がいなければ、この歌は自分とクラスの子どもたちの思い出の中にそっとしまい込まれて終わりだった。

アンサンブルが終わると、今度は地域の方から「楽譜がほしい。」「音源はありませんか。」と申し出があった。地域の会合等で歌っていただいているとの事だった。地域のコーラスの皆さんからも歌いたいというリクエストをいただくことになった。さらに学校でも音楽会、卒業式の最後の歌として歌ってもらった。

五年生になり、「歌の続きを創ってほしい。」という要望が地域から寄せられた。龍江地区には四つの地区があり、その中の一つの区の歌詞がなかったからだ。理由はその地区にクラスの子どもが一人もいなかったからで、地域を巡っていなかったからだ。そこでその地区を巡り、三番の歌詞を考えることになった。翌年、さらに話は膨らみ、公民館長の塩澤俊夫氏から「CDにして地区の全戸に配ることになった」というお話をいただいた。驚いたが、断る理由がなく、子どもたちが卒業する春に立派なCDができあがり、いい卒業記念となった。

思いもよらずここまで広がった歌が、これからどうなるのかは分からない。だんだん忘れられていくにせよ、歌い継がれていくにせよ、子どもたちが、自分たちのふるさとの風景や思いを込めた歌詞が、同じ地域や学校に関わる人たちの思いと重なったから広がったのだと思う。

私にもふるさとがある。生まれて十八歳まで過ごした県外の遠いふるさと。もう長野県で過ごした時間の方がずっと長い。でも毎日のように遊んだ近くの神社、自転車で行った近くの海、海や山の風景は、今でも変わらず「ふるさとのたからもの・・・・・・」だ。龍江小学校は山間の小さな学校。子どもたちの多くはきっとふるさとを離れて遠くへいってしまうだろう。そしていつしか「ふっと」ふるさとを思い出した時、みんなで創ったこの歌を口ずさんでくれたらこんなにうれしいことはない。